上杉謙信

米沢藩藩祖。文武両道に優れた戦国時代を代表する武将です。
 上杉謙信は上杉家の16代目にあたる人物で、1530年1月21日に越後国(現在の新潟県)の春日山城に長尾為景の第二子として産まれました。幼名を虎千代と言います。

 幼い頃の景虎は、体が弱かった兄晴景とは反対にとても元気で、親が困ってしまうほどの乱暴者であったため、春日山城下林泉寺に預けられ、修行を課せられることになりました。
 父親の死後は、自分のそれまでの振る舞いによって、心配をかけてしまったことを嘆き見違えるほど落ち着いたといわれています。この後は、林泉寺の天室和尚のもと、より修行に励み、上杉謙信としての基礎が築き上げられていきました。謙信が戦に出陣する際に必ず行っていた、神に代わって悪を討つための信念を固める儀式などは、謙信の心の中には常に神仏を敬う気持ちがあったことが伺えます。
 為景の死後、長尾家の家督は兄である晴景に譲られると、晴景の力の無さに謀叛を企てるものが現れます。その中でも特に目立った動きを見せたのが、従兄弟である長尾政景でした。晴景はその事を知り、虎千代に謀叛を鎮めてくれるよう頼みました。
 そして、天文12年(1543年)の正景討伐が虎千代の初陣となり、14歳で軍勢を従え見事に敵を破りました。
 虎千代は15歳で元服し、名前を景虎と改めました。その後、守護上杉家の老臣の黒田秀忠が2度の反乱を起こしますが、景虎はそれを鎮めるとかねてより晴景に不満を持っていた越後国人の支持を得ます。これにより、景虎と晴景の関係は険悪なものへとなっていきました。しかし、天文17年(1548年)その事を知った上杉定実は、晴景に世継ぎがいない事から景虎を養子として迎え入れ、長尾家を継がせるように計らいます。これを晴景が承知し、景虎は晴景の養子になりました。
 天文22年(1553年)、病気がちだった晴景が死去すると、景虎は名実共に越後国の領主になりました。
川中島の合戦
 甲斐の武田信玄が信濃の国を侵略しようとしたのは、天文11年、信玄の妹の婿、諏訪頼重を滅ぼしたときに始まり、信濃十郡を次々に攻撃しました。最後まで抵抗していたのは南の木曾氏と北の村上氏でした。信玄は北信を手に入れようとし、天文22年(1553年)8月、大軍をもって攻めました。城主村上義清は勇戦奮闘しましたが大敗し、越後に謙信を頼って逃げ、信濃の領地を奪い返してもらいたいと願いました。信濃は謙信にとって隣国であり、祖母の生まれた土地でもあります。謙信は信玄が理由もなく他国を侵略するのを怒り、村上義清の願いを聞き入れ、さっそく信玄に書を送って、旧地を返還するように勧めましたが、信玄は応じません。これが、上杉・武田両氏の川中島合戦を引きおこすもとになったのです。
 川中島は長野の東南・犀川と千曲川の合流する中に挟まれた地点の名称です。この地は越後・甲斐・上野三国に通ずる道路の要所で、謙信の居城春日山から約68キロ、信玄の本拠地甲府からは約150キロの地点です。ここで、奇しくも戦国時代の武将中でも、最も用兵戦術に優れた2名将が、長年にわたって戦い、竜虎相搏つ合戦が展開されることになったのでした。
 川中島の合戦は計5回にわたって行われましたが、その中でも戦国史上に残る大合戦といわれたのが、永禄4年の戦いです。
 同年、景虎は関東管領上杉憲政の頼みを受けて上杉氏を継ぎました。ついに上杉謙信(政虎)の誕生です。
 ところが、その隙に信玄が信濃に兵を出したのです。怒った謙信は、関東から帰ると、直ちに信玄との決戦に備え越後国内の守備を固め、8月14日、13,000の兵を率いて川中島へと出兵しました。15日、善光寺に到着すると兵5000人を後詰めとして残し、8,000の精兵を引き連れた謙信は一気に敵地深くに入り、海津城を見下ろせる妻女山に陣を布きました。
 一方、武田信玄は、上杉勢出陣の報を聞き、8月18日、17,000の兵を率いて甲府を出発し、途中で合流した3,000を合わせて20,000の兵を率いて茶臼山に陣を布きました。ここは、妻女山よりも善光寺寄りで、上杉軍の退路を遮断する位置であり、また妻女山は海津城と茶臼山から挟まれる位置となりました。
 この作戦は長期間となれば、上杉勢は兵糧を絶たれて不利になります。妻女山の将兵には次第にあせりの色が見られ、中には退陣を勧める者も出て来ました。しかし、謙信は胸中深く期するところがあるのか、平然と愛用の琵琶「朝嵐」で得意の曲を弾き、時には小鼓を打って近習に謡わせています。この敵を呑んだ態度は、将兵の心を鎮め、一方、武田方には、何とも不気味なものに感じられるのでした。
 ところが、8月29日、信玄は突然茶臼山の陣を払って、海津城に入りました。どうして、武田方が有利な態勢をくずして陣を払ったのかは謎とされていますが、信玄が妻女山の状況を探り、謙信の態度を知って、何か作戦が隠されていると思い込んだという説もあります。
 9月9日は重陽の節句です。海津城内も妻女山も陣中で節句を祝っていました。その時、すでに信玄は軍議を開いて進撃の作戦をしていたのです。それは、軍を2つに分け、一方は12,000をもって妻女山の後方から夜襲をかけ、信玄自ら8,000の兵を指揮して川中島に陣し、逃げて来る上杉勢の退路を遮断して全滅させようという作戦でした。そして、後方に回る一軍は、地理に詳しい海津城主高坂弾正が指揮することになりました。
 しかし、謙信は夕方、山頂から海津城を眺め、いつもより炊事の煙が多くのぼるのを認め、作戦の動きありと判断します。直ちに機先を制して敵を奇襲しようと考え、諸将を集めて出動の命令を下しました。それは敵の啄木(きつつき)の戦法の裏をかき、敵の本陣を突く作戦でした。陣中は、いつものように篝火を燃やし、午前零時過ぎ、月が西山に没するのを見るや、謙信は全軍に進発の命令を下したのです。8,000の兵は整然として妻女山を下り、千曲川を渡り、甘糟近江守の一隊を川の西岸に残して高坂軍に備え、午前2時半、川中島に7陣の戦闘隊形を整えて戦機を待ったのでした。
 武田方は、それとも知らず、高坂弾正の率いる12,000の兵が10日午前零時に海津城を出て、妻女山の裏に回り、本隊8,000は午前4時に城を出て千曲川を渡り、川中島に陣を布きました。
 10日の朝を迎え、暁の霧が消え始めるころ、信玄の陣は前方に物影を認め、探ってみると、目前に上杉軍がいるのです。慌てた信玄は何とか陣を立て直して弓鉄砲で防ぎますが、全軍総突撃の命が下っていた上杉軍にはかないません。両軍の猛将勇卒は武名にかけて、ここを先途と闘ううち、信玄の弟の信繁や山本勘助を初めとする将らが討死するなど、武田軍は劣勢に追い込まれていきました。
 この乱戦の中、謙信は守備が薄くなった信玄の本陣へと馬にまたがって切り込みをかけます。そして持っていた刀を振り上げた謙信は座っている信玄をめがけ三太刀にわたり斬りつけました。信玄は持っていた軍配でこれを凌ぎますが、肩先を負傷します。その後、信玄の供回りが駆けつけたため、謙信は惜しくも信玄を討ち取る事は出来なかったといわれています。
 戦いも大詰めを迎え、武田方の総崩れになろうとした時、妻女山の空陣地に登った高坂弾正の軍が、千曲川を渡って駆けつけ、背後から攻めて来ました。上杉方は犀川の方に退去を開始しましたが、高坂弾正の軍に追撃され、上杉方は防戦となり大きな損害を受けることになりました。
 この合戦は、前半は上杉方の勝利、後半は武田方の勝利といわれ、両軍の戦死者が参戦総数の4分の1にあたり、これがわずか6時間ほどの合戦であつたことを考えれば、この戦闘は戦史上稀に見る激戦であったといえます。
 この川中島合戦の折に、謙信が使用した琵琶の名器「朝風」と信玄を斬りつけたという長光の名刀は今も上杉神社にあり、日本戦史上、稀な名将の面影を偲ぶことができます。
 この後、再び起きた川中島での戦いは、60日にも及ぶ睨み合いの末に決着は付かず、これ以降謙信と信玄が川中島で合いまみえることはありませんでした。
長い戦いが終わって
 長年に渡り謙信と戦った武田信玄ですが、元亀4年(1573年)になると病を患うようになりやがて亡くなります。謙信は、長年争ってきた敵の死を涙を流して悲しんだと言われ、また信玄も息子の勝頼に何かあったら謙信を頼るように遺言を残しこの世を去ったと言われています。このことから二人の間には単なる敵としてではなく、おたがいを好敵手と認めていた絆のようなものがあったことが伺われます。
 その後謙信は、能登での七尾城の戦いと織田信長との手取川の戦いを終えると、天正6年(1578年)3月9日に次なる遠征に向けての準備をしている最中に春日城内で倒れ、4日後の3月13日に亡くなりました。享年49歳。
「四十九年 一睡の夢 一期の栄華 一盃の酒」

謙信が残した辞世の句です。

 遺骸は甲冑をつけ、甕に納めて密封し、城内の不識庵に納めました。家督を継いだ上杉景勝が、慶長3年(1598年)、会津に移ると、遺骸もまた会津城内に移され、さらに慶長6年(1601年)、米沢移封とともに、米沢城内の御堂に安置しました。正面に霊柩、右に善光寺如来、左に泥足毘沙門天を納めて、大乗寺・法音時をはじめ21寺、僧50名をもって廟務を掌り、以来300年、藩祖を崇敬することは他にその類例のないほどでした。
 廃藩の後、明治5年、上杉神社を創建し、4月29日を祭日と定めました。これは、謙信逝去の天正6年3月13日を太陽暦に換算して定めたものです。また、遺骸は明治9年10月8日、上杉家歴代の御廟所に移されました。

上杉謙信が残した「上杉家家訓16条」
一、心に物なき時は心広く体泰なり
一、心に我儘なき時は愛敬失わず
一、心に欲なき時は義理を行う
一、心に私なき時は疑うことなし
一、心に驕りなき時は人を教う
一、心に誤りなき時は人を畏れず
一、心に邪見なき時は人を育つる
一、心に貪りなき時は人に諂うことなし
一、心に怒りなき時は言葉和らかなり
一、心に堪忍ある時は事を調う
一、心に曇りなき時は心静かなり
一、心に勇みある時は悔やむことなし
一、心賤しからざる時は願い好まず
一、心に孝行ある時は忠節厚し
一、心に自慢なき時は人の善を知り
一、心に迷いなき時は人を咎めず