上杉鷹山関連の史跡

松岬神社
松岬神社
松岬神社
上杉景勝、上杉鷹山、直江兼続ほか3名が祀られています。
 明治に入り、上杉神社に上杉謙信とともに祀られていた上杉鷹山が松岬神社に分祀されました。大正12年上杉景勝が合祀され、昭和13年、米沢市制施行50周年を記念して、新たに直江兼続、鷹山の師細井平州、重臣竹俣当綱、莅戸善政が配祀されました。
上杉家廟所
上杉家廟所1
上杉家廟所 上杉家廟所2
歴代藩主の廟
上杉謙信をはじめ米沢藩代々の藩主が眠っています。
 上杉景勝が亡くなった元和9年(1623年)より上杉家の御廟所とされました。以後、歴代の藩主が埋葬されてきました。
 明治6年の米沢城解体に伴い、米沢城に安置されていた上杉謙信の遺骸も、明治9年、御廟所へ移されました。
 廟屋は、上杉景勝から7代藩主・上杉宗房までが入母屋造り、8代藩主・上杉重定(藩政を立て直した名君・上杉鷹山の義父)から11代藩主・上杉斉定までが宝形造りと時代により建て方に変化があります。
 樹齢400年を越す老杉に囲まれ、厳粛な空気に満たされている御廟所は、大名の墓所の代表例として国の重要史跡に指定されています。
拝観時間
9:00~17:00

拝観料金
一般350円(250円) 高・大200円(150円)
小・中100円(80円) ※( )は20名以上の団体料金
餐霞館遺跡
餐霞館遺跡
餐霞館遺跡
上杉鷹山の隠居後の邸宅跡です。
 「餐霞館(さんかかん)」は米沢藩9代藩主上杉鷹山が隠居後に住んだ邸宅跡です。鷹山は35歳で隠居し、家督を義父重定の次男冶広に譲りました。以後、72歳で亡くなるまでこの住居で藩政を指導しました。
 「餐霞館」の名の由来は「霞を食べること」、つまり世俗を離れ仙人のような清貧の生活を営む住居の意味といわれています。
 鷹山の有名な歌「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人のなさぬなりけり」もここで作られました。
白子神社
白子神社
白子神社
上杉鷹山が誓詞を奉納した神社です。
 白子神社は和同5年(712年)の創建と伝えられています。それ以来、米沢の鎮守の宮として長井氏、伊達氏、蒲生氏、上杉氏と置賜地方を治めた歴代の領主から信仰され、社殿の造営や社領の寄進など大切に保護されてきました。上杉鷹山が倹約を誓って納めた「倹約誓詞」は市の文化財に指定されています。
 また、白子神社の門前に「市」が始まり、米沢の町、商店街が開かれたともいわれています。現在も残る粡町(あらまち)、立町はこの門前市から興った町といわれています。
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藩校興譲館跡記念石碑
藩校興譲館跡記念石碑
藩校興譲館跡記念石碑
藩校興譲館跡地に建てられた石碑です。
 鷹山は「学問は国を治めるための根元」であるとの考えから、安永5年(1776年)、城下の元篭町に藩校「興譲館」を創設しました。創設にあたっては、鷹山の師である細井平洲の意見を求めました。「興譲館」と命名したのも細井平洲です。
 平成20年、藩校「興譲館」の歴史を後世に伝えるため、米沢市内の跡地に、有志によって記念碑が建てられました。
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愛宕神社
愛宕神社
愛宕神社·山頂神社 愛宕神社2
鷹山公雨乞いの碑
上杉鷹山が雨乞い祈願をした神社です。
 愛宕神社は米沢市遠山の愛宕山頂上に鎮座し、火の神である軻遇突智命(かぐつちのみこと)を祀っています。
 9代藩主上杉鷹山が自ら雨乞い祈願に参詣し、慈雨をもたらしたというエピソードでも知られています。神社側には「鷹山公雨乞いの碑」と記された記念碑が残されています。
 毎年8月1日に「愛宕の火祭り」が行われ、松明行列と山頂までの夜のみこし渡御は勇壮です。
 また、8月1日早朝に「市民登山」が行われます。この日愛宕山に登って参詣すると夏負けしないという言い伝えがあります。
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籍田の碑
籍田の碑
鷹山が自ら耕したと言われる田は、現在も残っています
上杉鷹山は自らが田に入り耕すことで、農業の尊さを伝えました。
 「籍田」とは古代中国で行われた、天子(君主)が国内の農事を励ますため、自ら田を踏み耕し、収穫した米を祖先に供えた儀式のことです。
 この故事を学んでいた鷹山は、安永元年(1772年)自ら率先して籍田の礼を行い、凶作などで困窮し働く意欲を失ないかけていた米沢藩の領民に、農業の尊さを示しました。
 以後、籍田の礼は藩主が米沢に在国の年の恒例となり、歴代藩主により続けられました。
 田の傍らに建つ石碑と上杉神社が主催する田植祭・抜穂(ぬきほ=収穫)祭が、鷹山の領民を思いやる気持ち、農業を尊ぶ心を今に伝えています。
普門院
普門院1
赤い山門 普門院1
本堂
上杉鷹山が恩師細井平洲を出迎え、旅の労をねぎらった地です。
 普門院は、上杉鷹山が恩師、細井平洲を迎えた地として知られています。
 寛政8年(1796年)9月6日、鷹山は平洲の3回目の米沢来訪を郊外の関根の地で出迎え、新築まもない普門院に案内して、旅の労をねぎらいました。現在も、平洲が休息をとった部屋や茶器・湯桶などの諸道具が残っています。
 鷹山が高齢の師を労り礼をつくした様子は、平洲の弟子・樺島石梁に送った書簡に詳しく記されています。境内にある「一字一涙の碑」はその一節を刻んだもので、「一字一涙」とは書簡に添えられた神保蘭室の跋文「之を読めば一字一涙、人をして慨焉として往日を憶わしむ」からとったものです。
 普門院は昭和25年に国の史跡に指定されました。