上泉主水泰綱

直江兼続配下の武将として、長谷堂城の戦いで活躍しました。
 剣術新陰流の祖・剣豪として有名な上泉信綱の嫡孫とされています。もともと後北条氏に仕えていましたが、小田原の役で後北条氏が滅亡したため、関ヶ原の戦い直前に上杉景勝から軍備強化の一環で仕官を求められ、上杉氏の家臣となりました。そして、出羽の関ヶ原ともいわれる長谷堂城の戦いへ参加。長谷堂城を守る最上氏の武将・志村光安と戦うも、敗れて戦死しています。
 山形市に残る長谷堂城跡の近くには、上泉主水泰綱が討ち取られた場所とされる主水塚をはじめとして、戦いにまつわる碑や供養塔が点在しており、現在でも上杉・最上両軍の戦死者の供養が続けられています。
主水塚
主水塚
主水塚(山形市長谷堂)
長谷堂城の戦いを伝える場所の1つです。
 長谷堂城の戦いで上泉主水泰綱が討ち取られた場所だといわれています。戦いが終わった後、地元の人々は上杉・最上両軍の戦死者を分け隔てなく埋葬し供養したといわれています。